懐煙

人気の無くなった河川敷でヒル魔は手に持ったタバコに火をかざす。
フィルター越しに息を吸い込むことで火を宿す性質の嗜好品は、ただ火に炙られ表面を覆う薄紙だけが焦げ付いていく。
その様子にヒル魔は仕方なく先の焦げたタバコを口に含み深く息を吸い込んだ。
タバコに移った火はヒル魔の呼吸に合わせて強弱に赤く光りながら、勢いを付けタバコを磨耗していく。
久しぶりに肺に満たされた毒性の煙は、瞬間的にヒル魔の息を詰まらせる。

「.........っ。」

何とか咳き込みを押さえたヒル魔は渋い表情で煙を吐き出し、地面に寝転がってまた新たな息を吸い込んだ。
別に今日初めて喫煙したわけではない。
この口腔内に広がる苦味と胸に落ち込むえもいわれぬ重たさを、心地よいと感じていたのは栗田と出会う少し前。
中毒になるほどに依存していたわけではなかったが、多少のイラつきを緩和するくらいにはなっていたかもしれない。
煙を吐き出しながら脅迫手帳片手に凄めば、たいていの小心者はコロリと騙されヒル魔に平伏した。
けれどそんな小道具もデビルバッツを作ったことで必要なくなり、いつの間にか喫煙自体を止めてしまった。
ヒル魔はタバコを目の高さまで持ち上げて、その先がうっすらと白い線を描く様を見つめめる。
ゆらりと空に向かって立ち昇る紫煙は、空と地上の境目に架かることなく微かな空気の流れに霧散していく。

「糞ジジィの時だってテメェに手ぇ出そうなんざ思わなかったのによ。」

独り言のようにタバコに話しかけながら、ヒル魔はムサシとのゴタゴタを思い出す。
ムサシが抜けて、いくら取り戻そうと足掻いてみてもダメだった頃。
その逃げ口に使われていたのも、今この手に収まっている小さな白い棒だった。
あの頃はムサシがヒル魔の目の前でタバコを口にするたびに、その行為自体がヒル魔を含める全ての拒絶を示しているようでどうにも我慢がならなかった。
だからタバコ自体がヒル魔にとっては近寄りたくないものだった。
ムサシがタバコを捨て自分の所へ戻ってきてからは、アメフトに打ち込みムサシや仲間と騒ぎあうことでタバコの存在など忘れていた。
今日、阿含に面と向かって再会するまでは。

「あんな取材受けんじゃなかったか?」

ヒル魔は誰に問うでもなく呟いていた。
初めてタバコを口にした日、その隣にいたのは阿含だった。
互いに上手く吸い込めず、けれどどちらも負けず嫌いの子供だったから無理矢理煙を飲み込んで身体が慣れるまで吸い続けた。
ただなんとなく一緒にいた相手ではあったが、お互いそれなりに必要としていた時期も皆無ではなかった。
けれどもヒル魔は阿含を捨てた。
もしくは捨てる前に阿含がヒル魔を切り離したのかもしれない。
身体作りの為だとか、試合に出られなくなるからとか、喫煙の回数が減っていくたびにヒル魔は勝手に理由を付けた。
喫煙を止めた本当の理由はもっと身勝手でくだらない感傷的なものだったのかもしれないと、ヒル魔は今更ながらに過去の自分を笑い飛ばす。
吸いかけのタバコはいつの間にかその大半を空へと流し、ヒル魔の指先へと迫っていた。
何度か吸い込んだだけで、もう興味の無くなったそれをヒル魔は土に押し付け水面へと投げ捨てた。
手元に残る封を切られたばかりの小さな箱もまとめて川へと投げ捨てた。
そうして飲みかけのコーラを咽喉に流し込んでヒル魔は学校へ足を向ける。
部室では栗田やムサシを含めた数名のメンバーが残っていた。

「ヒル魔ぁ、お帰り。取材どうだった?」
「別に、いつもどおりだ。」
「ふーん。......あれ?ヒル魔タバコ臭くなってるよ?」
「ああ、場所がファミレスだったからな。どっかで吸ってんのが移ったんだろ。」

栗田の言葉にヒル魔は表情も変えずに嘘をついていた。
けれど内心でヒル魔は喫煙しない人間の嗅覚の鋭さに舌を巻く。
栗田はヒル魔の返事に微塵の疑いも向けず、また他の仲間と話し込み始めた。
そんな様子を横目にヒル魔はそっと部屋を出る。
すっかり日の暮れた部室の外でヒル魔が身体に染付いた煙の臭いを叩き落とそうとした。
その時、背後から伸びてきた手に強く袖を引かれてヒル魔の身体が後へ倒れこむ。

「なっ...んっ、ぅ」

ヒル魔は倒れこんだ先で、顎を引き上げられて強引な口付けを受けた。
すでに馴染んだ感触でヒル魔は相手がムサシだと知る。
合わされた唇は、その深さと対照的にすぐ離される。

「いっきなりなにしやがんだっ!!この糞ジジィ!?」
「うるさいっ。このバカヤロウっ!」

ムサシは一言しゃべったかと思うと、ヒル魔の頭にゴツンと拳骨を振り下ろした。

「っ痛ぇぇぇっ.........なにしやがるっ!ぶっ殺されてぇのかっ!!」
「口ん中、ヤニ臭くて不味い。今までで最低のキスだな。」
「っ!!」

ヒル魔は一瞬にして顔を赤くさせる。
今の行為はキスなどではなく、ただ単にムサシはヒル魔の喫煙をその舌で確かめていたのだ。
今更ごまかしきれるわけも無く、ヒル魔は逆切れを装ってムサシに噛み付く。

「テメェだって大工だった頃はそんな味だったんだよッ!!」
「今のお前には吸う必要も無いだろう?」

薄暗がりの中で沈黙するしかない二人の耳に、明かりの灯った部室の窓から騒がしい声が聞こえてくる。
ヒル魔はその明かりに目をやりながら、ムサシがどこまで自分を見抜いているのかと緊張していた。

「......もうっ、やんねぇよ。」
「やらせんさ。」

ムサシは更に真っ赤になったヒル魔の頭を引き寄せぐしゃぐしゃ撫でながら部室へと促した。
たぶんムサシは今日ヒル魔がタバコに手を出した理由に気付いている。
ムサシと出会う前の、ムサシが知らないヒル魔の存在をわかっている。
それらの全てをたった一言で片付けるムサシに、ヒル魔は小さく笑みを浮かべた。

「今日はテメェに勝たせといてやる。」
「当たり前だ。」
「調子に乗んなっ。糞ジジイ」

二人は軽く小突き蹴り合いながら部室へと戻っていく。
過去も現在も全部を飲み込んで未来へと向かう仲間の元へ。