疑惑

その日,蛭魔が帰宅してみると,まだ武蔵は帰ってきていなかった。何時頃に帰ってくるのかはっきり分からなかったので,夕食は二人分,いつでも食べられるようにと準備していた。
あいつにただ帰ってくるのを待っていたと思われるのは癪なので,口実作りのためにパソコンを手に居間で見もしないテレビをつけてソファにどさっと座る。
朝何も言ってなかったし,連絡もなかったからそれほど遅くはならないだろうと思っていた。
ところが,予想に反して武蔵は日付が変わって随分なった頃に帰ってきた。
玄関でガチャリと言う戸の開く音がした。
そのままどたどたどたと言う騒々しい足音が聞こえたかと思うと,ひょっこりと酒の臭いとともに武蔵は現れた。
そしてまだ蛭魔が居間にいたことに少々驚いた様子で,

「ただいま」

と言った。
こんな深夜に帰ってきて何がただいまだと腹立たしく思って怒鳴り散らしてやろうと振り返った。
その時。

酒の臭いに混じってふわりと柑橘系のさわやかな香りが武蔵から漂ってきた。

間違いなく香水の香りだ。
しかも,女物の。
どこかで嗅いだことのある気がするが,珍しく思い出せなかった。
一瞬言葉に詰まって,どうしていいか分からなかった。
けれどそんなこと悟られたくなかったので

「今何時だと思ってやがる,糞ジジィ!」

と悪態をつきながら平然を装い気づいてない振りをした。
言ってやりたいことは山ほどあった。
遅くなるんだったら連絡くらい入れろとか,こんな時間まで何処で何してたんだとか, …………その香水は何処の女のものだとか…
でもどれも結局聞けずじまいで一緒にいるのさえ腹立たしくて先にベッドへと潜り込んでしまった。

接待だったんだろ,と自分に言い聞かす。
けれど自分の冷静な部分が,今までに一度だって事前に言うことなく武蔵が接待に行ったことなどなかっただろ,と問いかけてくる。
接待にしろ,遊びにしろ,一度限りのことなのだからこの際目をつぶろう,そう思った。

ところが次の日も武蔵の帰りは遅かった。
そして脱ぎ捨てられた服からは酒とたばこと…昨日と同じ香水の香り。
今日こそは怒鳴ってやろうと思っていたのに,その香りを嗅いだだけでうろたえて挫けそうになってしまっている弱気な自分に腹が立った。

職人仲間たちとのつきあいだろう,遊びに決まってる,そう今度は自分に言い聞かせる。
でも心のどこかで思う。
本当に遊び…なのだろうか?
遊びなら2日続けて一緒の女じゃなくていいだろう?と。

そんなことがその後も3日ほど続いた。
けれど生活自体には何の変化もない。
俺はいつも通りに振る舞ったし,武蔵も何もいってこなかった。
ただ違うのは,深夜の帰宅に服からは酒とたばこと香水の臭い。
香水はいつも同じ柑橘系のさわやかな香り。
いっそこの香りがむっとするような甘い香りだったなら何処の女と遊んできたんだと問いつめられたのに,それをこれは許さない。
清潔感の漂う香りに遊びじゃないと言うことを突きつけられるよな感覚だった。

何も言わない武蔵に日に日に疑惑がつのる。
はじめのうちは仕事だろう,つきあいだろうと言い聞かせられた。
けれど5日も続くとさすがにそのいいわけでは聞かなくなる。

俺に飽きたのか?
俺が嫌いになったのか?
俺と別れたいのか?
だったら何でそんな遠回しに伝えるんだ?
だったら何でいつも通りに振る舞うんだ?
その女のこと…本気なのか?

言いたくて,でも言えない気持ちであふれて胸が締め付けられるようだと思った。
自分の頭の中だけで考えるのはそろそろ限界だった。
一人で考えていてももう堂々巡りするだけなのは分かっている。
けれど,それでも,のどまで出てくるのに,嫌いだ,と言われるのが怖くて何も言えない弱い自分に吐き気がした。
しかし心の奥底で,武蔵が嫌いになるのも当たり前じゃないか,と冷静に思う自分がいる。
自分勝手で,わがままで,傲慢で,意地っ張りで,素直じゃなくて,口も悪くて,いいとこなんて一つもない。
それでも武蔵がいつも困ったように笑いながら,「仕方ねぇな」って,許してくれるのをいいことに甘え続けていた。
武蔵の優しさに甘えて振り返らなかったのは自分だ。
もうとっくの昔に武蔵の心は離れてたのかもしれない。

そしてあの日から6日目,武蔵の帰りは5日ぶりに早かった。
今日こそ言ってしまおうと思っていたのにタイミングをすっかり見逃し,二人で夕食を食べて,くだらないバラエティー番組を見る羽目になった。
二人で並んでソファに座る。
一緒にいるのすら苦しくて立ち上がろうかと思ったとき,不意に武蔵がこちらを向いて,

「好きだ,蛭魔」

と俺の手をそっと握って言った。
その一言で俺の中で何かがぶち切れた。

「ふっざけんな!!!!」

武蔵が驚いたように目を見張って俺を見つめた。

「好きじゃねぇなら好きだなんて言うな!何で,おまえは…もういい!出ていく!!!」

言葉にしようとしてもうまくまとまらない。
普段はいやに回転の速い頭脳なのに大切な時にはちっとも働きやしない
。 ただもうこの場にいるのは限界で,財布だけを手に出ていこうとした。
しかし武蔵がとっさに俺の手をつかんだ。

「え,あ,ちょ,ちょっと待て!何で出ていくなんて言い出すんだ?!」

顔は青ざめてあたふたしているものの,しっかりと手首をつかんで放さなかった。
俺は必死でその手を振り払おうとしながら,

「糞!ほかに女がいるんだろ?!別れ話がしたかったならあんな遠回しな方法じゃなくもっと男らしくやれよ!」

と怒鳴りつけた。正面切って言われたならすっぱり別れてやるのに,未練がましくすがりつく気はないのに,笑って幸せになれよっていってやれるのに,どうして,どうして?
武蔵が呆気を取られて真っ白になっているうちに手をすっと振り払う。
ばれてないとでも思っていたんだろうか?
そうだとしたら正真正銘の馬鹿で間抜けだ。

「お幸せに!」

そう言ってばっと立ち去ろうとした。
が,

「まままっっ待て,待ってくれ」

と叫びながら武蔵が足首をぎゅっと掴んだ。
おかげで勢いづけていた俺は前につんのめって派手に転んだ。
なんとか手を前に出して顔からダイブすることは避けたが,さっきとは違う怒りがむくむくふくれあがってきてきっと武蔵をにらみつけた。
しかし蛭魔が転んだ隙に腰のあたりに抱きついてきて逃げられないように羽交い締めにされた。
悔しいが,武蔵の方が蛭魔より力が強いので逃れることは出来ない。

「何すんだ,糞浮気エロジジィ!」
「違う,いや,違わないけど,違うんだ!話を聞いてくれ,蛭魔!」

武蔵は必死の形相でしがみついてくる。
その頭を手で押しやりながら,
「は〜な〜せ〜!お前と話す事なんてもう何もない!」

と言い放つ。
武蔵は少し目をつむり,困ったような表情をしてから意を決したように,がばっと起きあがり蛭魔の手首を掴んで床に縫いつけるとその上に覆い被さった。

「言い訳くらい聞いてくれよ!いや,やっぱり,聞かないで…」

視線がきょろきょろと動き全く蛭魔の方を見ようとしない。

「何だ,言ってみろよ。言い訳とやら」

別に言い訳が聞きたくないわけではない。
むしろ言い訳くらいして欲しい。
けれど,「えっと」とか「うっ」とかで全く要領を得ない優柔不断な武蔵の態度にだんだんいらいらしてきて,

「出ていく!」

と怒鳴る。
この体勢では出ていきたくても出ていけないのだが,その目に本気の色を感じ取ったのか武蔵があわてる。

「話す,話します!お,怒らないで聞けよ?」

返事を返さずに黙ってにらみつけていたら沈黙に耐えかねた武蔵は話し始めた。

武蔵の話はこうだった。
5日前,武蔵は仕事帰りに工務店の職人たちと一緒に飲みに行った。
蛭魔に言って来なかったので早く帰ろうと思っていたのだが,話が弾んで帰り損なってしまった。
悪いなと思いつつも酒も入り,酔いが回るうちに,まあ酒の席ではよくあることだが,愚痴が始まった。
俺も先日蛭魔と喧嘩,と言っても俺が一方的に機嫌が悪くなっただけだが,をしていたこともあってついつい愚痴っていた。
原因は武蔵の嫉妬。
蛭魔にとってはただ単に友人と話していただけであったのだが,武蔵が何をどう思ったか勘違いをおこし「浮気か?!」から最後には「捨てないでくれ!」にまで発展した馬鹿馬鹿しく恥ずかしい話だ。
その時にさんざん蛭魔にも馬鹿にされ,あきれられたのだが,武蔵としてはいつだって誰かに取られはしないか,変なのにちょっかい出されてないか心配でならない。
そう言う話をしていてふと蛭魔はそんな風に思うことはないのだろうか?
そう思ったのがきっかけだった。
いつだって嫉妬したり,しがみついていくのは自分の方で,ホントは蛭魔は俺の事なんて何とも思ってないんじゃないかと思い始めた。
そう思ったら最後落ち込む一方で,そんな俺を見かねた職人の一人がここは一つ浮気でもしてみて愛を確かめてみたらどうだと言った。
浮気なんてとんでもない,とすぐに断ったが,別にホントに浮気しなくても香水の臭いでもさせて帰ったら反応が違うんじゃないかという話になった。
普段なら即座に断っていただろうが酔いとその場の勢いもあって玉八の嫁さんに香水を借りてちょっとつけて帰ってみることにした。
玉八にも玉八の嫁さんにも「やめておけ。どうなっても知らないぞ」と言われてはいた。けれどやっぱり気になるので試してみたかった。
だが家の近くまできてやっぱり玉八夫妻に言うとおりじゃないかと思ってどうしようか悩むうちに遅くなり,まあもう寝てるだろうと思って帰宅するとそこには蛭魔がまだ起きていた。
深夜に酒とたばこと香水の臭いを漂わせて帰ってきたにもかかわらず蛭魔は無反応。
全く頓着もされない様子にさすがの鈍い俺でもへこんだ。
でも,あきらめきれなくて次に日もその次の日も試すうちに5日が過ぎた。
けれど一向に蛭魔からの反応はない。
鼻の利く蛭魔が気づいてないなんて言うことはまずない。
蛭魔にとって俺ってその程度の男だったんだ,と思いながらも,どんな扱いでもやっぱり蛭魔を好きな事実には代わりはなくてもういいかとあきらめた。
そして今日久々に蛭魔と至福の時を過ごしながらテレビを見ていたら突然「出ていく!」と言われ大慌てする現状に至った。

話が進むうちに自分の顔からだんだん表情がなくなっていくのが分かった。

「いや,でもお前がヤキモチ焼いててくれたなんて思わなかったから。やべー,顔がにやける」

と嬉しそうに笑う武蔵とは裏腹に急速に機嫌が下降していく。

「おい」

腹の底からドスの利いた声を出す。さすがに武蔵もその不穏な様子に気づきビクつく。

「ふざけたマネしやがって,ただじゃおかねぇ…」

押し倒された状態でありながらも少しも衰えもしないそのどす黒いオーラに武蔵はあわてふためく。
武蔵の方が体勢的にはまだ優位だが,心理的にはもう完全に負けている。

「怒らないっつたじゃんか!」
「言ってねぇ!放せ,ぶち殺してやる!」
「断る!俺まだ死にたくねぇ!」

そう言ってとっくみあいの争いが続いた。
半時間位してさきに折れたのは蛭魔だった。
やはり武蔵に力ではかなわないのでため息をつきながら,

「あー,馬鹿みてぇ。つーかお前馬鹿だろ?絶対後で殺してやる,覚えとけ」

と悪態をつきながらも体から力を抜く。どうやら気が収まってきたようなので,

「悪いが馬鹿だからそんなこと覚えてらんねーよ」

と武蔵もちゃかして笑いながら言う。
そして同時に笑い出す。
ひとしきり笑った後,武蔵は押さえつけていた細い体をぎゅっと抱きしめてささやいた。

「俺が好きなのは,今も,これからも,お前だけだから」

そしてにっと笑ってふれるだけの優しいキスを一つ落とす。

「…やっぱ馬鹿だ,お前///」

頬を赤く染めながらそっぽを向いてそうつぶやく。
そのあまりの可愛さに武蔵は理性が切れそうになるのを感じた。
ただ,甘い空気を漂わせながらも,

「今度したら承知しねー」

とくぎを刺すことは絶対に忘れない。武蔵も苦笑しながら,

「了解です,女王様」

と冗談めかして返事をする。
けれどその目は恐ろしいくらいに真剣だった。
その後しばらく沈黙があったが,また武蔵の方が先に耐えられなくなり,

「…とりあえずベッド行かねぇ?俺もうそろそろ我慢の限界なんだけど」

と伺ってくる。
今更抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなって,そのまま体を預ける。
その様子を理解したようで蛭魔を抱えると寝室へと消えていった。


自分が思ったより武蔵に溺れていることに気づかされた,そんな俺の5日間。


<醜結>



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Phantom crystal 神楽 薫 さまからいただきました。
『醜結』なんかじゃぜんぜんありませんよ。
対等(ややヒル優勢)もいいですね。
まさかこんなにしっかりとした長さのSSを頂けるとは思っても見なかったので、びっくりするやら申し訳ないやら。
本当にありがとうございました。