一人相撲

まだるっこしい平日の午後、十文字君は久しぶりに独りになりたくて部室へと向かいます。
どんな人間でも時々孤独を感じたくなるもので、いつもは仲良し戸叶君と黒木君には内緒でそっと出てきたのです。
孤独を知るからこそ、友達や仲間といったものが愛しくて頼もしくてありがたいのだということに賢い十文字君は気付いていました。
幸せでお腹が一杯になってしまったら気持ちが麻痺して大事な人たちを傷つけかねないのが人間です。
だからたまの孤独は十文字君にとって、とても大切なものなのでした。
この大事な時間を満喫しようと誰もいないはずの部室へと足を踏み入れ十文字君はその身を凍らせます。

「っ!?………あんたこんな時間に一人で何してるんだよ?」
「んあ?なんだ糞長男、てめぇこそ何しにきた?」

せっかくの孤独を楽しむ計画が十文字君の中で脆くも潰れ去っていきます。
部室にいたのはまさに悪魔の化身といいましょうか、怖い怖いヒル魔先輩でした。
その存在は怖くて恐ろしくて、まさかこんなにもお近づきになるとは神様にだって分からなかったに違いありません。
この悪魔の怖いところはその行動や報復のみならず、一度魅入ると離れられなくなる美しさでもありました。
そういえば、と十文字君は思い出します。
神や天使が悪魔よりも魅力的であったなら、この世の人間は誰も惑わされたり騙されたりすることはないのだと何かの本に書いてあったことを。
悪魔の魅力はいかなるものよりも素晴らしく、どんなものにも抗うなんて出来ないのだと、十文字君はその身をもって知ってしまったのです。

「いつも、ここにいるのか?ヒル魔……センパイは。」
「けけっ、無理して後輩面してんじゃねぇぞ。隙あらば寝首かくのがお前に信条だろうが。」
「………っ。」

確かに十文字君だって男の子ですから、やられっぱなしは性に合いません。
でもこの悪魔に対してはどうも少し勝手が違うようで、そんな自分に混乱してしまうのです。

「おれ、一応あんたのことは敵とか思ってないんだけど?」
「さぁ、どうだかな。」

悪魔は十文字君のほうなど見向きもせずに、魔法の電子機械ばかりを相手にします。
十文字君はなにやらそれが悔しくて寂しくて、つい厭味が口をついて出てしまうのです。

「まぁ、あんたは昔っから一人で敵ばっかり作ってきたから信頼とか信用なんて言葉はなさそうだけど。」
「………。」

悪魔の綺麗な瞳が一瞬だけ十文字君に向けられ、また逸らされます。
きっとこの悪魔は目だけで人をどうにかできる力があるんだと十文字君は跳ね上がる胸を押さえて言葉を続けます。

「なんかそれって寂しくねぇ?どうしてそこまで一人になんだよ。なのにいつもいつも何であれだけ出来るんだよ!!!………っ!?」

悪魔がその長い手と綺麗な指を伸ばして十文字君の頭をつかみます。
十文字君は抵抗も出来ずに引き寄せられ、悪魔におでこをつき合わせられてしまいました。
息と息が触れ合うくらいの至近距離で鼻の頭がくっついて、危険な瞳に魂を奪われてしまいそうで、十文字君は全身の血液が沸騰する寸前です。
そんな十文字君の身体を魂ごと冷やすかのように、艶めかしい唇から言葉がこぼれてきました。

「………ココの違いだろ。」

明らかに十文字君を蔑んでくる悪魔の態度に救われて、十文字くんはその呪縛を解こうと手を振り払って離れます。

「ふざけんなっ!!」

ニヤニヤといやらしく笑う悪魔を背に、十文字君は捨て台詞を残して部室を飛び出しました。
魔界からの脱出成功です。
危険は去ったはずなのに十文字君はなぜかとても惜しいことをしたような気がして、胸の動機は一向に収まらず頭はカッカと熱を持ったままでした。

「おう、長男じゃないか。どうした、顔が真っ赤だぞ?」
「っ!?」

十文字君が顔を上げるとそこには通りすがりの元大工さんがいます。
十文字君の心を乱す悪魔が唯一人間に戻る相手です。
唐突にお腹の底から熱くて苦しいものが沸いてきて、十文字君は堪えきれずに吐き出しました。

「どうせ馬鹿だよっ!!」
「???」

わけの分からないことを叫ばれて元大工さんが止まっている間に、十文字君は逃げるようにその場を離れてゆくのでした。

「おいヒル魔、オマエ何かしただろ。後輩あんまり苛めんなよ?」
「………別に。」
「じゃぁ、何でそんなに上機嫌なんだ………って、聞けよ人の話を。」
「…………………ん。」

元大工さんは部室に入ってくるなり悪魔さんをたしなめます。
けれども悪魔さんは聞く耳もなく元大工さんにキスをねだるので、仕方なく唇を与えてあげます。
それが悪魔さんを人間に戻す儀式であることに元大工さんは気付いていません。
たぶんきっと十文字君なら気付くのでしょうが、当の本人はいまだもって行き先も無く走り回るのでした。
走りながら十文字君は考えます。
あの悪魔さんは孤独に囲まれていてるから幸せが何なのかをきっと絶対に知っているのでしょう。
それに対して自分は幸せを知るために孤独を齧ろうとするのです。
とても太刀打ちできるものではありません。
十文字君には役不足なのです。
けれどそれでもあの悪魔さんが欲しいと思う自分の気持ちに気付かない振りをすることはもう出来そうにもありません。
その苦難と挫折の道のりはまだまだ長く、リタイヤもできそうにないようです。
こうして十文字君の青春はキラキラと輝いて自分の目を潰しながら過ぎていくのでした。