弱蟲殿下

深夜に隣で寝ていたヒル魔が小さく唸りだす。
その声に目が覚めてムサシはヒル魔を覗き込んで小さく囁く。

「おい、どうした?」
「……ん〜………手ぇ………」
「手?ああ、大丈夫だ。なんとも無い、なんとも無い。」
「…………」

ムサシはヒル魔の背中をあやすようにポンポンとたたいて眠りへと促す。
そうするとヒル魔はいつも決まってムサシに身体を摺り寄せ、安心しきった寝顔を見せ寝息を立てはじめる。
ヒル魔は極々稀に寝ぼけてムサシに甘えてくる。
本人は無意識なので起きた時には覚えていないのだが、ヒル魔のこんな様子に付き合う度にまだ忘れられていないのかとムサシは苦笑する。
そしてヒル魔の頭に枕代わりの腕を敷いてやりながら、ヒル魔がうなされる事になった原因を思い出す。



その事故が起きたのはいつだったのかはっきりとは覚えていないが、中学生であった事だけは確かである。
中学当時すでにヒル魔のアメフトへの入れこみ様は凄まじく、毎日のように馬鹿騒ぎをして競いながら笑っていた。
そんなある日、それは起こった。

ガシャン

「ヒル魔っ!!」
「うわっ!っ痛ぇ………」

ヒル魔に向かって落ちてきた鉢植えは、別に誰かがわざと狙ったわけではなく偶然の出来事だった。

「ヒル魔っ、どこか怪我してないのか?」
「あぁ、たぶん大丈…夫?」
「ヒル魔?」
「………ムサシ、ちょっと右手見てくれ。何かなってないか?」

右手から顔を背けたままのヒル魔の言葉に従って言われるままに目を向ける。
落ちてきた鉢植えを叩き落した右手首は少し赤くなっていて、いくつかの擦り傷も作ってはいたが特に目立った異常は見られなかった。

「少し赤くなって、擦り傷もあるが特に問題は無さそうだぞ。」
「でも……指………動かねぇ………」
「は?」

ムサシは慌ててヒル魔を病院へ連れて行って診察を受けさせた。
その間のヒル魔はとても落ち着いていて、ただ不自然なくらい頑なに右手を見ないようにしていた。

「神経を強打したので一時的に麻痺したんでしょう。特に骨折も無いし、一週間して動かないようであればまた来て下さい。」
「でもっ治療しなくて良いんですかっ!!こいつの手、アメフトでQBしててすごく大事なんです!」
「はぁ、でも今はなんともしようが……。特に通電検査でも異常はないからあとは時間が経てば………」
「時間ってどのくらいですか!?オマエもなんか言えよっ!!」
「………そのうち治るんだろ、帰るぞ。」
「ヒル魔っ!!」

いつもなら手帳の一つでも出して脅しに掛かるヒル魔がそれだけ言って席を立つからムサシも後を追うしかなかった。
それから数日、ヒル魔は何事もなかったかのように学校生活を送っていた。
利き手が使えないので不便さはあったのだろうが、ノートなどは元々全てPC処理していたようで、食事も箸を使わなくていいものにしていたらしい。
ただ右手首に巻かれた白い包帯と軽く曲がったままの指が痛々しくムサシをイラつかせていた。
そうして翌日か翌々日にはまた病院へ連れていかなければと思っていた日の放課後、ムサシは教室でしげしげと自分の右手を眺めるヒル魔を見つけた。

「ヒル魔、手が痛いのか?」
「……あっ………動いた。」

ポソリと呟くヒル魔の言葉にムサシは一瞬何を言っているのか理解できなかった。
ヒル魔は呆けてきょとんとした顔をムサシに向けてもう一度言った。

「指、動いた。」
「動いた!!本当にか? 見せてみろっ!!ってヒル魔?」

ヒル魔は右手を見つめたままその場に座りこんで笑い出した。

「あははっ………なんか膝に力入らねぇ………ははっ……」

ヒル魔は小刻みに震えながら指先をぎこちなく動かしていく。
ムサシは思わず駆け寄ってヒルマを抱きしめた。
その途端にヒル魔がしがみついてきて、泣きそうなくらい情けない声を絞り出した。

「……怖かっ……た………」

ムサシは黙って抱きしめたまま、ヒル魔の背中を軽くたたいて暗くなるまでそうしていた。
指が動かなくなるのが怖かったのか。
アメフトが出来なくなるのが怖かったのか。
ムサシや栗田との約束が果たせなくなるのが怖かったのか。
一体何が怖かったのかは聞くことが出来なかった。
結局、ヒル魔の指はそれから程なくして完全に元通りになった。



腕の中で眠るヒル魔を眺めながらはムサシは意識を思い出から現実へと引き戻す。
あれ以来、ヒル魔この事を忘れようとしていたし、たぶん普段は本当に忘れているのだと思う。
ただ、今のようなヒル魔を見るとこの記憶が消えたわけではなく、深い意識の奥底で眠っているだけなのだとムサシはいつも思い知らされる。
今思えば、きっとヒル魔は怖くて怖くて自分の右手も見られないくらいに怯えていたのだろう。
ムサシは今でもそれに気が付けなかった自分の不甲斐無さに腹が立つ。
だから今もまだヒル魔の中から甦ってきて安らかな眠りを妨げようとするその恐怖をムサシは優しく記憶の底へと押し返してやる。
まだ幼くて守るどころか気付く事さえ出来なかった未熟な自分の変わりに、あの頃の分まで今もそしてこれからもずっと守っていこうとその寝顔に誓う。