行先 3

1)
ヒル魔が自分の身体を道具として計算に入れるようにな ったのは、まだ学生の頃だった。
整いすぎた容姿のせいで、ヒル魔は不幸なことに幼い頃 から男女問わず変質者に事欠かなかった。
だから自然とその中で上手いかわし方や挑発の仕方、手 玉の取り方までも身についてしまっている。
もちろんその身を最後まで与えてしまうことは極力避け ていたから、そんなに経験があるわけではない。
好きでもない相手に触れられるなど、実際には嫌悪の対 象でしかなく、もうそれしかないという究極の状況でな い限り軽はずみには使っていない。
果たして本当に今がその究極の事態かどうかを、ヒル魔 は短い時間で計算する。

「じっくり考えてくれていいよ。まだ夜は始まったばか りだしね。」
「どこの狒々ジジィだ、テメェは。」
「こういう台詞、ヒル魔相手に一度言ってみたかったん だ。」
「・・・・・・・・・。」

からかっているとしか思えないふざけた口調で話す高見 の目は笑っていない。
他に何か逃げ道はないかと、ヒル魔にしては時間をかけ て頭を回転させる。
高見から提示されたデータは一見しただけで、そのほと んどが頭に入っているから後の足りない部分など、多少 の手間暇をかければ難なくクリアできる。

しかし問題は高見がこの情報を誰かに横流しした時にあ った。
マイクロSDに入れられた情報は本当に良くできていて 、少し頭の使える人間であれば完璧とはいかないまでも 、悪用することは十分に可能だった。
そうなると、ヒル魔の周りに余計な邪魔が増えるという 煩わしさが懸念される。
しかもその時には、いま目の前にいる高見も相手側に回 っていると考えていい。
そこが一番厄介だと、ヒル魔は内心舌打ちをしてしまう 。
ヒル魔自身を代償とする価値はすでにこの情報自体には 無いが、今後の障壁をできるだけ低くしておく為にはや むをえないと、よく切れる頭は結論付けた。

「取引はしてやる。ただし、材料はこんな情報じゃねぇ 。糞メガネ、テメェ自身だ。」
「良すぎる頭ってのは本当に厄介だな。目先のことだけ じゃ満足しない。」
「うるせぇよ、どうせテメェもこうなる事がわかってて 、やってるんだろうが。」
「さぁ?どうだろうね。とりあえずそれ飲めば?シラフ でやりたいならそれでもいいけど。」

ヒル魔は机の上に置かれたままの缶ビールに手を伸ばし た。
足りなければもっと持って来るけど、と笑う高見を無視 して缶の中身を一気に煽る。
胃の中で爆ぜる発泡が、空腹だったことをヒル魔に気付 かせた。
空っぽで緩和するものが何もない胃壁が、勢いよくアル コールを吸収していく。
一瞬にして上がった体温を逃がしたくて、ヒル魔はネク タイを引き抜き、首周りを緩めた。

「せっかちだね。」
「そんなんじゃねぇ。」
「顔赤いけど、実はお酒弱かった?」
「空きっ腹に効いただけだっ!!こんなの景気づけにも なりゃしねェッ」

じわじわと嬲るような高見の口調にヒル魔は苛つき、空 き缶を投げつける。
高見はそれを避けようともせず、その身に受けた。
アルミ製の缶は高見にぶつかると床へと落下して、軽い 音を立てながらヒル魔の足元へと転がり戻ってくる。

「もっと冷静な男だと思っていたけど、実はそうでもな いのかな?」
「・・・・・・ッ!」

癇癪を起こした子供のようなヒル魔の行動を知らしめる ように、高見はわざと口にした。
転がった缶の口から、僅かに残った液体が流れ出て床を 汚す。
フローリングの床はマットのように水分を吸ってはくれ ない。

「床にマットぐらい敷いときやがれ。」
「なんで?敷いていたら掃除が面倒じゃないか。ああ、 それとも床だと痛くないかって心配してるの?」
「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ、こっちは嫌味も通 じねぇ堅物相手にしてんじゃねぇんだよ。」

何を言っても皮肉げに言葉を返してくる高見が憎らしく て、ヒル魔は本気で睨みつけた。
またわざとヒル魔の神経を逆撫でるような言葉を返して くる気かと身構えれば、高見はあっさり視線を外して周 囲を窺う。
何かを探していた様子の高見が床から拾い上げたのは、 先ほどヒル魔に弾き飛ばされたメガネだった。

「一生懸命睨んでる所を悪いんだが、これが無いと実は あんまり見えていなくてね。」

メガネをかけ直した高見がヒル魔に近づいてくる。
ヒル魔は怯んで逃げそうになる身体を情けなく思い、腹 に力を入れて踏ん張った。

「見えねぇ奴が何で睨まれてるなんてわかんだよ。」
「それだけ殺気立たれたら、寝ててもわかるよ。」
「触んじゃねぇっ!」

ヒル魔は頬に触れようとした高見の手を叩き落とす。
すると高見はもっと距離を詰め。顔を寄せて囁いた。

「俺はヒル魔が欲しくて、ヒル魔も俺が欲しいんだろう ?まるで告白しあったばかりの恋人みたいだね。」
「お互いそういう意味で欲しがってんじゃねぇ。これは ただのビジネスだ!」
「でも、今からやることは恋人同士でするものだと思う けど?」
「何言ってっ!!」
「ちょっと黙って。」
「んっ・・・・・・」

高見の方からゆっくりと優しく唇を合わせてくる。
さっきのような強引なキスではなく、くいしばったヒル 魔の唇へ力を抜くようにとそっと触れる。
それは本当に恋人同士の口付けと錯覚しそうな柔らかさ で、ヒル魔は内心驚いてしまう。
過去に交渉のために身体を与えた相手は、誰も彼もが自 分の欲望に忠実で、ヒル魔を征服で出来ればよいとしか 思っていないことがその行為から感じ取れた。
けれども高見の場合、いつの間にか腰へと回された手は 誰よりも優しくヒル魔を包み、唇はヒル魔の意志を尊重 して触れ合う程度で様子を窺っている。
高見はヒル魔が知る人間の中でもトップレベルで計算高 い冷徹な男だと思う。
こうして唇を合わせている今も、その評価に揺るぎはな い。
それなのにこんなに優しく扱われては、今までの経験と は勝手が違いすぎて、ただの交渉では無いのではないか という気さえしてきてしまう。
もしかしたら高見には計算など無く、本気で自分と恋人 になりたいと思っているのかと考えてしまいそうになる 。
高見の求めるものがわからなくて、ヒル魔は思わず掌で 相手の口を塞いだ。
すると今度は唇にしていたのと同じように、ヒル魔の掌 に吸い付き指の隙間から舌を突き出してその形をなぞる 。

「やめっ・・・ろ、んぁっ・・・手、舐めんっな・・・ 。ただのビジネスなんだから、そういうのはいいだろっ 」
「そっちこそビジネスだって言うのなら、きちんと付き 合ってくれないか?こういうことは初めが肝心だからね 。」
「だ・・・ったら、こんなとこでサカってんじゃねぇっ ・・・・・・どうせ突っ込むのはテメェのほうだろがっ 。床の上とか硬いとこでやると、こっちは後がきついん だよ!!」
「じゃあ、軟らかい所、行く?」

ヒル魔は不本意ながらも自分から誘ったような形になっ たという自覚があり、羞恥を覚えながら黙ったまま頷い て返事を返す。
促されて部屋を移るとき、ヒル魔は少し冷静さを取り戻 した頭で考えた。
飴と鞭の使い分けも、話の流れも高見の側にあまりに上 手く寄りすぎていて、何もかもが全て高見の計算のうち だとしたらと想像して、背筋が凍りつく。
しかし今更どう足掻いてみても、今のヒル魔に逃げ場は 無かった。