1)
終業時間を知らせるチャイムがビル全体に鳴り響く。
その音をどこか遠くに聞きながら、ヒル魔は高見と向か
い合っている。
自分の素性を言い当てられても表情一つ変えずにいるヒ
ル魔を、高見は眼前に据えてさすがに手ごわい相手だと
胸中でつぶやく。
「今テメェが手に持ってやがる情報ってのはそれか?」
「あれ、否定しないの?」
「くだらなすぎて何の価値も無ぇ、無駄足踏ませやがっ
て。」
ヒル魔はこういう場合、どう答えた所で疑惑を深めるし
かない事を知っている。
それに加え、ごまかすには相手が悪すぎた。
高見がこの状況で口にしたとすれば、それは明らかな確
信があるに違いない。
だから尚更ヒル魔には高見の言葉を、否定も肯定もする
気がなかった。
同時に、これ以上余計な詮索を受けることを避けたくて
、ヒル魔は再び資料室を出ようとした。
「肯定もしないわけだ。」
「しつけぇ。終業時間になっちまったじゃねぇか。帰ら
せやがれ、この糞メガネ。」
「これはもういいのか?残念だな、中身は若社長さんの
足を引っ張れるネタが満載なのに。」
高見の言葉に、ヒル魔は動きを止めた。
一瞬の困惑がヒル魔の眉間に浮かんで消えた。
目敏くそれを目にした高見は薄く笑ってヒル魔を挑発す
る。
ヒル魔といえども、会社の不利益に結びつくような役立
たずになれば放逐されるだけのことであって、『隠し子
』という事実はあくまでヒル魔側の弱点でしかない。
ヒル魔の素性は誰に知れたところでどのようにも誤魔化
せる。
そのくらいの対処法は十分すぎるほどに揃えられていた
。
ヒル魔の存在は、もともと御曹司と企業を守る為の、簡
単に言ってしまえばただのスケープゴートでしかない。
高見がそんな事も分からない無能な男でないことはヒル
魔にもわかる。
だからこそ、ヒル魔自身を強請ることはせずに他の情報
を持ち出して別の取引しようとする高見の思惑が読めな
いでいた。
「・・・・・・テメェ、なにが目的だ?」
「そんなに警戒して唸り声だすな。さっきも言っただろ
う、お前だよ。ヒル魔。」
「意味がわかんねぇ。」
「お前がオレの立場だったら、将来ここを乗っ取る予定
の有望株とは仲良くしておいたほうが賢明だとは思わな
いか?」
「・・・・・・・・・。」
高見の言い分は傍から見れば納得できる十分なものだと
ヒル魔は思う。
けれど、それは相手が高見以外の人間だった場合であっ
て、この男に限ってはそんな薄っぺらい理由だけで動く
こと自体ありえない。
だからといって、高見の能力を考えるとこのままその手
にある情報を流してしまうには惜しく、またこちらの弱
点を高見に握られたまま放置しておくにはヒル魔の身が
危険すぎた。
「中身を確認してからだったら、話に乗ってやってもか
まわねぇ。ただし、くだらねぇモンだったら速攻テメェ
を叩き潰す。」
「慎重だな。お前のそういう狡賢いところは結構気に入
っているよ。手本にさせてもらいたいくらいだ。」
「相手によりけりだ。特にテメェみてぇなインテリ野郎
はスペシャルフルコースでご招待しなきゃ失礼にあたる
だろう?」
「だったらせめてディナーの店くらいはこっちで決めさ
せてくれないか?それにコレ、俺の自宅にあるPCでし
か見られなくしてあるから。」
予想していたこととはいえ、高見の周到さには鳥肌が立
つ。
何もかもが自分の思い通りに進む退屈な日々に少し嫌気
を覚え始めていたヒル魔は、ギリギリの駆け引きの中で
行われるゲームのようなその感覚に咽喉を鳴らせた。
2)
間接照明しかない薄暗い部屋で、ヒル魔はとめどなく流
れるPC画面に張り付いていた。
高見から渡されたマイクロSDカードの中に入っていた
内容はさまざまで、企業に与えるダメージは最小限に回
避されながらも、使い方によっては確実に息の根が止ま
るようなものも多分に含まれている。
ヒル魔は改めて高見の能力の高さに目を見張った。
「どう?結構面白いだろ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
ビールを片手に少し寛いだ格好の高見が、ヒル魔の横に
顔を並べて画面を覗き込んできた。
至近距離に置かれた高見の顔にも、手元に置かれた缶ビ
ールの冷たさにも反応せず、ヒル魔はひたすら画面を見
つめていた。
その様子に高見は身体を離し、ヒル魔の作業が終わるの
を黙って待った。
それから程無くして画面から顔を離したヒル魔は椅子の
背に身体を預け、疲れた目をいたわるように両手で顔を
覆う。
同じ姿勢をとり続けて凝り固まった背筋を伸ばす気持ち
良さに、思わず息を吐きながらヒル魔は高見に話しかけ
た。
「これで全部か?・・・・・・んなわけねぇよな。詰め
が甘い。」
「・・・・・・さすが、というのを通り越してむしろ腹
が立つな。あんまり切れる頭もどうかと思うけどね。」
高見が渡したデータはヒル魔の言うとおり完全ではなか
った。
それでも他の人間が見たとしたら、そこに足りない部分
があるなどということには気が付かない程度には完成度
の高いものだった。
それをヒル魔はたった一度、それもざっと目を通しただ
けで見破ってしまう。
「何でそれだけの頭があるのに平社員なんかに納まって
いるのか、理解に苦しむな。」
「そっちだって人のこと言えた身分じゃねぇだろ、この
糞メガネ。で、残りは取引が成立してって事なんだろ。
何が目的だ?言ってみやがれ。」
「だから、最初ッから言ってるんだけど。『蛭魔妖一自
身』が欲しいって。もしかして意味通じてない?」
ヒル魔は身体をほぐす為に背を仰け反らせたままの姿勢
で、背後の高見を見上げる。
高見は理解できていない表情を浮かべた顔の尖った顎を
捕まえて、薄く開かれた唇を塞いだ。
「んっ!!」
顎をのけぞった体勢上、上手く唇を閉じられず高見の舌
が侵入してくる。
ビールの苦味だけが残った嫌な味が高見の舌から伝わり
、ヒル魔の顔が歪む。
不安定すぎる姿勢が邪魔をして、少しでも見動くとヒル
魔は椅子ごと背後に倒れてしまいかねない。
それでも自分の顔に張り付いた高見を引き剥がそうと、
ヒル魔は覆いかぶさっている顔に爪を立てて押し返す。
「つッ!」
ヒル魔の薄く尖った爪が高見の頬に傷をつけ、反動でメ
ガネを弾き飛ばした。
反射的に離れた高見の隙を突いてヒル魔は体勢を立て直
し、乱れた呼吸のまま睨みつけた。
「テメェ・・・そっちの趣味かよ。」
「そうじゃないけど、君とより親密になるには良い作戦
だと思っているよ。」
「ケッ、ノンケのヤローが、んな事出来るとでも思って
んのか?」
「普通は出来ないだろうね。だから今試してみた。そう
したら結構平気でこのままいけそうな気がしてきてる。
」
「頭おかしいんじゃねぇのか?」
「かもね。で、どうする?続きするなら残りの情報もあ
げるけど。それにこういう事が初めてってわけでもない
だろう。」
「・・・・・・・・・。」
確かに高見の言うとおり、こういった取引に自分の身体
を使うことも、今までに経験がないわけではなかった。
ただしそれは後腐れの無いものや、そういった行為自体
が相手にとって致命傷になる場合であって、高見のよう
に得体の知れない人間を相手にするにはリスクが大きい
。
しかし同時に手に入るものの価値も大きく、ヒル魔は獲
物と代償を秤にかけて思案する。
高見はそんなヒル魔の様子を表情も変えずに見つめてい
た。