片恋 -右片-

ヒル魔は一人きりの部室で最近自分の中で起こっている変化に思考を向ける。
たぶんきっかけは、ほんの些細な出来事だった。
不意に肩が触れたとか、人ごみで偶然見つけただとか、あまりに些細過ぎてどれがそうだったのか思い出すことは出来ないけれど。
ヒル魔のムサシを見る目がいつの間にか変わっていた。
気が付くと、ヒル魔は視線の端でムサシを探している。
どんなに他の音を聞いていても、心地よい特別な声を聞き漏らすまいと人知れず耳をそばだてる。
もちろん誰にも知られることなく、ムサシ本人にも気付かれないよう細心の注意を払ってのことではあったが。
ヒル魔は胸の内で確実に育っていくその気持ちを困惑気味に持て余していた。
そんなこととは露知らず、いつも当然のようにムサシがヒル魔に近づき声をかける。

「おぅヒル魔、やっぱここにいたか。英語の辞書持ってねぇか?」
「......ん。」
「悪ぃな。」

突然の声にも顔色一つ変えず、ヒル魔はムサシに辞書を手渡した。
本当は飛び上がってしまいたいくらいにドキドキする心臓を押さえつけて、わざとぶっきらぼうに振舞う。
どうも自分の中で特別になってしまったらしい友人が、至極簡単に笑いかけてくるのに居た堪れなくなる。
ヒル魔に向けられた笑顔はとても強力で、その効力に抗える人間などいないのではないかと思ってしまう。
こんな笑顔を目にしたならば、ムサシに憧れる女の子の多くはきっと頬を赤らめ俯いてしまうだろう。
無骨な見かけとは違い、人から向けられる恋愛感情に聡いムサシの場合なら、女の子が赤面する理由など確実に筒抜けになってしまう。
でもそれは女の子だった場合の話で、もし今ヒル魔が真っ赤になって俯いたとしても、『体調が悪いのか』とか『熱があるのか』と、勝手に勘違いしてくれるに違いない。
それはありがたいことではあるが、同時になぜだかとても痛い。
どこがどう痛いのか、上手く説明できなくてヒル魔の悩みはまた一つ増えていく。
この気持ちを何と呼ぶのか、ヒル魔は恐ろしくて結論を先延ばしにしていた。

「おい、ヒル魔。」
「んあ?」
「いや、辞書貸してくれるんじゃないのか?」
「......?」

ムサシの問いかけに、だから貸しているじゃないかと辞書へ視線を這わした先でヒル魔の目が点になる。
渡したと思っていた辞書はいまだに自分の手にあり、その端をムサシが掴み引っ張っていた。
知らず知らず力の入ったヒル魔の指は、辞書を介して少しでもムサシと繋がっていたいと主張する。
手と手の間に入った辞書を伝わって、自分の何かがムサシに流れ込むような気がした。

「うわっ!!」

ハッと我に返ったヒル魔が急に辞書を離す。
その反動はムサシの手にも伝わり、弾かれたように辞書が床へと無様に落ちて広がった。
呆然と自分の手を眺めるヒル魔に向かって、ムサシがまた笑う。

「あ〜あ、何してんだよ。お前でもぼーっとすることがあるんだな。」
「うるせぇ......考え事してただけだ。」
「へえ、どんな?」
「テメェみてぇな脳味噌じゃわかんねぇ事だよっ。とっととそれ拾って消えろ。」

ムサシはヒル魔の不遜な態度に、少し不機嫌な顔つきをした。
けれど、それ以上何も言わずに黙って辞書を拾い上げ、その場を立ち去る。
去っていく足音だけに聴覚を集中しながら、ヒル魔は自分の指先を眺めた。
ジンジンと熱く脈打つその指先が、強張ったままの頬を朱く染めていく。