身空 1

1)

『苦海十年』と称される色町で、ヒル魔は堕胎しそこなった遊女から生まれた。
生まれた子供が女であれば遊女に、男でも見栄えが良く商品価値の上がりそうな子供も同様に見世の所有物となる。
そんな現世から隔絶された浮世で育ったヒル魔にとっては、見世に出るようになってからの苦界生活も幼い頃から慣れ親しんできた当たり前の日常茶飯事でしかなかった。
姿見が良く教養も品位も兼ね備えたヒル魔は、幼い頃から末は太夫と周囲を色めき立たせていた。
しかしいざ見世に出してみると本人のやる気のなさと付いた客の性質の悪さが相乗し、期待も虚しく格子止まりとなっている。
ヒル魔の数少ない馴染み客はそれなりに遊女を囲うだけの力を持っていたが、あまり同類が増えることを好まない者が多かった。
馴染みになろうとする新顔が自分たちと同等に並ぶ価値のない男であれば、裏から手を回し容赦なく潰していった。
客同士の諍いはあまり好まれるものではなかったが、ヒル魔自身くだらない相手をしなくても済むので男たちの悋気を利用している部分はあった。
それでもその容姿に引かれ、ヒル魔と知らずに馴染みになりたいと願う客は後を引かなかった。
客と交渉を行う役の遣手はその度に余計な諍いを防ぐため、いちいちあれがヒル魔だとそれでも良いかと客に説いて回らなければならなかった。
色町で『ヒル魔』という名が独り歩きを始めた頃、馴染み客の一人がヒル魔の白く細い右足首に銀の鈴を与えた。
透かし彫り細工で作られた鈴は銀鎖で繋がれ足かせのように纏わり付いている。
それはヒル魔が動くたびにチリリと綺麗な音を上げて、『これがヒル魔だ、覚悟のないものは近寄るな』と警告する。
その効果は絶大で、以後生半可な根性でヒル魔に手を出そうとする客は激減した。



2)

酉の刻、夜見世が始まると同時にヒル魔が部屋へと呼ばれた。
今日の相手は誰かなどヒル魔には全く興味のないことで、遣手との会話もそこそこに見世の格子を離れて自分の部屋へと向かう。
なんの代わり映えもしない単調な夜の始まりに、仏頂面のままヒル魔は部屋の戸をあけた。
外を眺めるように窓にもたれていた男がゆっくりと振り向く。
今夜の相手は馴染みの一人でヒル魔の足首に銀鈴を繋がせた男、紫苑だった。

「やぁ、相変わらず愛想のない顔してるね。」
「愛想が欲しけりゃいつでも他のに鞍替えしやがれ。」
「そういうのはご法度だよ。それに君が許しても見世がどう言うかだねぇ。」
「知るかっ。こっちは相手する馬鹿が一人減って助かるけどな。」

そんな憎まれ口も手練手管の一つとしか解さない紫苑の余裕が、ヒル魔の仏頂面を更に深めていく。
いつまでも部屋の入り口で突っ立っているわけにも行かず、ヒル魔は部屋へ入り乱暴な仕草で後ろ手に戸を閉めた。
ヒル魔が一歩足を進めるごとに、右足に絡められた鈴が澄んだ音を響かせる。

「いい音色だね、銀鈴の音は魔よけになるんだよ。」
「耳障りでしょうがねぇっ。」
「だって仕方ないでしょ?そうしないと変な虫がすぐに付く。」
「付かなきゃこっちが困るんだよ。オレの身分わかってんのか?」

苛立つヒル魔の声を気にする風も無く、紫苑は窓の側に置かれている鳥籠に目をやった。
中には小さな小鳥が一羽、2人の様子を窺っている。
それは面と向かってヒル魔に手を出せないでいる数多の男からの贈り物の一つだった。
紫苑は鳥籠に手を伸ばし、こともなげに小鳥を掴みだす。
その動作が何を意味するのかを悟ったヒル魔は紫苑に駆け寄った。

「紫苑やめっ.........!!」

ヒル魔の制止は間に合わず、小鳥は紫苑の手の中で短い悲鳴をあげ、後に動くことを止める。
一瞬ヒル魔の顔は歪み、またすぐにもとの仏頂面に戻った。
思わず縋りついてきた白い手が床へと滑り落ち様を眺めながら、紫苑は手中のまだ生暖かい空の入れ物を窓から投げ捨てる。

「何...すんだよ。」
「これ位しておかないと、虫は逃げていかない。」
「そんなにくだんねぇ独占欲があるんなら、いっそ身受けでもしてみたらどうだ?」
「それは無理だね。だって、ヒル魔は自由になった途端に逃げてしまうだろ?」

言葉に隠して暗に甲斐性無しと詰られた紫苑は、ヒル魔に手を伸ばしながら軽く切り返す。
つい今しがた小さな命を握りつぶした手が、ヒル魔の腕を引いた。
抵抗もせず素直に紫苑の膝へと頭を預けながら、ヒル魔は言葉巧みにあしらおうとする。

「起請文でも書いてやろうか?血判付きで。」
「君には意味無いでしょ。心中立てなんてものはさ。」
「けっ、信用ねぇな。」
「そうだねぇ。君みたいな子は、この大きな箱庭に閉じ込めておくのが一番安心だ。」

紫苑の手がヒル魔の髪を優しく梳き撫でる。
その動きに心地良さを覚えたヒル魔は目を瞑り、髪から伝わる指の感触を楽しむ。
金色に輝く柔らかい髪を梳いていた指先がヒル魔の耳先に触れた。
紫苑はそのまま耳の形を辿るように指を滑らせていく。
緩やかに触れてくる指が耳を擽り、ヒル魔の肌を粟立たせる。

「......んっ、...やんのか?」
「おなかは減ってないんでしょ。」
「あんなの見せられた後だからな。」
「そう、良かった。」

小鳥とはいえ一つの命を握りつぶした直後だというのに、優しく微笑み覗き込んでくる紫苑の表情からは邪気など微塵も感じられない。
それがどんなに恐ろしいかなどと考える暇があるなら、その狂気がヒル魔に向かないように動く方が賢明だった。
今夜は食事にありつけないことを覚悟して、ヒル魔は紫苑の首に両腕を回した。



3)

深紅の布は左右にはだけて白い脛が顔を覗かせる。
その膝に置かれた毛深い男の手が布の奥へと押し入ろうと、太腿を撫でるように這い伝う。
白い足は侵入を拒むように両膝を立て摺り合わせるから、その動きに布は更にはだけて足の付け根近くまで晒す。

「.........っ」
「もっと力抜いて。」
「る...っせぇ、黙って...やれっよ......。」

わざと背けた顔といつもの憎まれ口に、紫苑は口元をほころばせた。
そして、そっぽを向いたがために晒されらた細いうなじに唇を這わせて耳朶を咬む。
息を詰まらせ小さくビクリと跳ねるヒル魔の様子を確かめながら、紫苑の舌は肌を辿って鎖骨の窪みをくすぐる。
首元から肩先へと緩やかに曲がりながら伸びるその骨は、咬み折ってしまえるほどに細い。
僅かずつあがっていく呼吸の乱れは、胸の真ん中にある小さな染みを起ち上がらせていく。
色濃くなっていく赤い胸先に誘われるようにして、紫苑はその片方へと歯を立てた。

「ひあっ......く、んんっ」

一瞬ヒル魔の背中は反りあがり、立てた膝が落ちる。
床に押し付けた踵は滑って足首に巻かれた鈴が啼き声をあげた。
鈴の音を耳にした途端、ヒル魔の身体は強張り動きを硬くする。

「ヒル魔?」
「右、足...触っんな」
「あぁ、こんな風に?」
「やめっ!!」

紫苑はヒル魔の右足を持ち上げ、自分の肩へと担ぎ上げた。
動かされる足に合わせ、鈴は絶え間なく銀色の音を響かせる。
片足を上げられ、両足で隠すことの出来なくなった内腿の奥へと紫苑が手を差し込んでくる。
ヒル魔は息を詰める暇もなく、紫苑の手に急所を握り込まれた。

「ふっ...ぁ、んっく...」

声と共に身体は震え、またチリリと鈴の音が鳴る。
ヒル魔は少しでも鈴を鳴らさないようにと膝に力を込め、紫苑の肩を締め上げていく。
その行為を諌めるように、紫苑が手中のヒル魔を擦り追い上げ始めた。
紫苑の指が先端を擦るたびに、先走る透明の体液がぬちゃぬちゃと湿った音を立てる。

「ひっ...あっ、やめっ」
「まぁ一度イっときなさいよ。」
「やだっ、手...離っ......紫苑!!」

子供をあやすように優しく囁きながらも、紫苑はヒル魔に服従を強いてくる。
自分の言葉通りにヒル魔を操ろうと、その手淫が巧さを増した。
括れを押さえ込まれ、その鈴口を抉るように擦られたヒル魔は我慢しきれずに精を吐き出す。

「......しえ...ぅっく!!」
「結構早かったねぇ。」

浅い呼吸を繰り返すヒル魔を上から覗き込みながら、紫苑は見せ付けるように汚れた手を広げ翳す。
自分の吐き出したものが頭上の指を伝って頬へと落ちてくる。
それを避けようとヒル魔が顔を背けると、また足が揺れて鈴の音を弾ませる。

「足、もう離せ。この糞ゲジ眉毛」
「そんな風に言われると、男は余計離したくなくなるもんだよ?」
「ぶっ殺されてぇか?」
「可愛くないねぇ。素直に鈴の音が嫌だって言えば考えてあげないでもないのに。」
「っ!!」

この色町では見世が開いている時間であれば、昼夜関係なくそこら中で艶めいた音が聞こえてくる。
どこの誰がどの遊女と遊んでいるかなど、気にすることすらない。
嬌声ぐらいどこからでも漏れてくる。
しかしその中であっても鈴の音を伴った艶声を響かせるとすれば、それはヒル魔以外には考えられなかった。
鈴の音が響いている間はヒル魔が客を取っているということであり、その音の激しさはそのまま仕事の様子を周りへと伝えていく。
ヒル魔の商売がいくら色事を切り売る事であっても、だからといってその様子が大衆の耳に晒されていては平気でいられない。

「興が冷めた。とっとと出て行け。」
「そんなに怒る事かねぇ?」
「いいから離れろ!!」

本気で怒りを見せるヒル魔の様子に、紫苑は引き際を知る。
もともと一筋縄ではいかないこの遊女の機嫌を損ねたならば、これから暫くは余計な手間暇をかけなくてはならなくなる。
紫苑が諦めたことを悟ったヒル魔が、その肩からゆっくりと右足を下ろした。
無言で身支度を整える背中に紫苑が声をかける。

「譲歩してあげたんだから、そっちも少しは機嫌直してくれるかな?」
「.........何が言いてぇ。」
「晩酌に付き合うくらい良いでしょ?」
「ケッ、好きにしやがれ。少しでも妙な気起こしやがったら叩き出すからなっ。」
「はいはい、指一本触れません。ホントに怖いねぇ。」

これだけ紫苑のほうから歩み寄ってこられると、あまり袖にするのも難しい。
ヒル魔は出来るだけ機嫌の悪さを漂わせながら、酒の席を設けるために二階番を呼びつけようと引き戸に手をかけた。
いまだ気だるさの残るその後姿を惜しそうに見つめる紫苑の表情は、ヒル魔が振り返ったとき既に消えていた。



4)

窓の外が白々しく明け始める。
紫苑は言葉通りヒル魔には少しも触れず、一晩中飲み明かした。

「そろそろ卯の刻だ。とっとと支度て出て行きやがれ。」
「つれないねぇ。」
「うるせぇ。」

遊女が客より先に眠ることは許されず、例え2人で眠っていても客が起きれば遊女も付き合い枕を離れるのが色町のしきたりである。
遊女の大事な睡眠時間は客が帰って初めて得られるものだった。
紫苑の酒に付き合い、寝ずに夜を明かしたヒル魔の眠気はかなり強くなっている。

「せめて門まで送ってくれたりなんかしないよねぇ。」
「ったりまえだ。寝言は寝て言いやがれ。」
「ヒル魔ぐらいじゃないの?馴染み客の見送りしないなんて。」
「................。」

遊女にとって、別れ際はとても大切なものである。
見世から大門までの道すがら、遊女はあることないこと客に吹き込んでは次の約束を取り付ける。
そうしなければ客はいつになっても付かず、稼ぎがなければ借金も膨れ上がるばかりだった。
しかしヒル魔はこの手管をあまり好まなかった。

「どうしてそんなに嫌がるのかねぇ。」
「...........鈴、外したら見送ってやる。」
「はい?」
「歩くたびに鈴が煩くて嫌なんだよ。」

歩くたびに響く鈴の音はヒル魔の意志に関係なく、周囲にその存在を知らしめる。
鈴の音が響く度に、知った顔や知りもしない顔が不躾な視線をヒル魔に投げつける。
客と一緒に歩いている時はそれらの視線も遠慮がちで、まだ何とか我慢できる。
問題は客を見送った後のことで、大門から見世へとかえる道中ずっとヒル魔は好奇の視線に晒され続けなければならない。

「それ、虫除けのつもりなんだけどねぇ。」

紫苑の言うとおり、この鈴の音を聞いた大抵の虫はヒル魔に近寄れないでいる。
けれどもそれは背後にいる馴染み客のことが怖いから我慢しているだけで、好機があればとヒル魔を虎視眈々と狙う目までは追い払えないでいた。
忌々しそうに足首の鈴を睨みつけるヒル魔を眺めながら、紫苑は立ち上がった。

「じゃあ、また来るよ。」
「もう来なくてもかまわねぇ。っつうか来んなっ」
「ホント、可愛いこと言うねぇ。」

客が来なくなれば困るのはヒル魔自身なのにと紫苑は笑う。
その余裕鎖加減が気に入らず、ヒル魔は去っていく背中に向かって枕を投げつけた。
枕が背中に届く前に戸が閉められる。
戸に弾かれ転がった枕をそのままにして、部屋の窓へと向かった。
窓枠に寄りかかるようにして見下ろした見世先に、紫苑の姿が現れる。
ヒル魔が見ているとも知らずに、馴染みの客は大門へと足を向け歩き出す。
その姿を眺めながら、ヒル魔は昨日この窓から投げ捨てられた小さな骸を思い出した。
後で探してきちんと葬ってやろうと心に決めたが、見世先にそんな死骸がいつまでも放っておかれるとは考えにくい。
自分の元へ贈られたがために失われた命に気付き、急に後味の悪さが胸にこみ上げてくる。
それを押し殺すために、もし死骸が見つからないならば小鳥は運よく生き延びたと思うことにしようと決めた。
ヒル魔は重くなる瞼の奥で、元気に飛び回る小鳥の姿を思い浮かべるのだった。