ムサシが少しけだるそうにヒル魔から離れる。
その動きにヒル魔の戒めを解く意志は窺えない。
幾重にも巻きつけられた細い針金に肉まで裂かれて血まみれになったヒル魔の手首は目を背けたくなるほどに無残ものだった。
そんな生々しい傷口から目を逸らそうともせずにムサシはヒル魔を見つめ続ける。
息を荒げて上下する体幹に散らばる鬱血の痕は、快楽に上気した肌の色を美しく飾っている。
血と精液にまみれたその姿は壮絶なほどに綺麗で、いつまでも眺めていたくなる。
「いつまでも見てんじゃねぇよ、糞エロジジイがっ」
不躾なムサシの視線に気付いたヒル魔は苛立ったように声を上げる。
次の瞬間、赤く柘榴のように裂けたヒル魔の手首が真っ黒く変色し、影となって針金の隙間からスルリと抜け出した。
白い手の形に戻ったときには、酷く裂けた傷口どころか縛られた跡すら見つけることはできない。
汚れきった身体もムサシの目の前で黒く染まり、ヒル魔が台から起き上がる頃には、まるで何もなかったかのように黒い衣服にぴっちりと身を包んだ姿がムサシの視界に現れる。
ムサシはそれを眺めながらため息をこぼす。
「今その服を引き裂いても、どうせ俺がつけた跡はひとつも残ってはいないんだろうな」
「ケケケッ、だとしたらどうだってんだ? 顔に似合わず糞センチなヤローだ」
ヒル魔は挑発するようにハイネックの首元を無理やり広げ、シミひとつない真っ白なのど元をムサシに見せ付けた。
そのしぐさに不機嫌そうに眉を寄せたムサシを見て、ヒル魔がまた笑う。
開いた口から覗く舌の赤色が、今はすっかり消えている手首の傷を思い出させる。
「とにかくっ、テメェはもうニンゲンに余計なことしゃべんじゃねぇっ! これ以上仕事増やされちゃ、こっちがたまんねぇからなっ」
「お前がいつでも傍にいるならそんなことはしやしねぇさ。どうだ、この際、監視がてらびっちり張り付いてみる気はないか?」
「バカ言ってんじゃねぇぞ、糞エロセンチがっ」
ムサシの提案にヒル魔は目を細め、うんざりした顔で言葉を続ける。
「この程度の憂さ晴らしで終わらせるのもいい加減、限度があるっていってんだよ。次やりやがったらマジぶっ殺してやっからな」
「その台詞ももう何度目だ?」
「うっ、うるせぇっ! その糞無駄口もう一生開けんじゃねぇっ、じゃあなっ」
「ああ、またな」
「または無ぇっつてんだろっ、糞ッ」
ヒル魔は忌々しそうに言葉を吐き捨てると、その全身を黒く染めて、現れた時と同じように影となり、台の下に広がる影の中へと消えていった。
「相変わらず、そっけないな、ヒル魔?」
ヒル魔が溶け込んだ影に向かって、ムサシは声をかけてみたが返答はない。
今頃はすでにどこかで誰かの死にでも立ち会っているのかもしれない。
それとももしかしたら、先ほどムサシが助言してやった人間がまた上手く逃げ延びて、その様子に地団太を踏んでいても良いとムサシは思った。
ふと目をやると、ムサシの体に残されたヒル魔の血は、すでに乾きかけて変色している。
ムサシはそれに舌を這わせてゆっくりと味わうように舐めとっていく。
そうやって体をきれいにしながら、次に扉を叩く人間を待つ。
次に来る人間もまた、ヒル魔を呼び出すための生餌として、死から精一杯逃げ回ってくれるだけの根性があればいいと、そんなことを思いながら、扉の先にいる哀れな子羊を心の底から待ちわびる。
死とは一度逃げおおせたからといって、そこで終わるものではない。
死から逃げた先には、また新たな死が恐怖とともに用意されている。
逃げても逃げても、その先に続く生などありはしない。
その人間に与えられた時間は、とうの昔に使い切ってしまっているのだから。
いつ終わるとも知れない恐怖に苛まれながら、仮の生を生き延び続けるのと、潔く運命を受け入れてたった一度の死に甘んじるのとではどちらが幸せなのか。
人々は重い鉄の扉をこじ開ける。
その先に待つ男が、気まぐれに助言を与えるたびに、また新しい死のシナリオを与えられるだけだということにも気付けないままに。
終