『五輪挿〜恋煩い〜』
「………今日も来ねぇか…。」
ヒル魔はため息をついて店を閉める。
ムサシが飛び出して行ったあの日以来、ヒル魔の唇を奪った生意気な犯人は店に一度も顔を出していない。
「らしくねぇっ!!糞っ!!」
毎日見ていた顔が、振り返っても見回してもどこにも無くて寂しいと感じる自分の心をヒル魔は叱りつける。
阿含がヒル魔の肌に付けていった刻印はすでに色あせ消えかかっているというのに、ムサシが気付かせた胸の奥のモヤモヤと唇の熱さは一向に弱まらずにヒル魔を悩ませていた。
今この瞬間に何事も無かったかのように元気な声が聞こえてきてくれたらと願いながらヒル魔はドアへと目をやる。
するとそこに人影が写っていることに気付き、ヒル魔は駆け寄ってドアを開ける。
「!!……むさっ………あ………」
「よう、また来たぜ。そろそろ俺がつけた印も消えかけるころだと思ってな。」
「………なんだ、糞ドレッドかよ。」
ドアの先にはムサシではなく阿含の姿があった。
ムサシでなかったことがこんなにも自分を意気消沈させていることにヒル魔は驚いた。
以前であれば阿含を見ただけで苦しくなっていた胸が今は違うことで締め付けられる。
「またそんな顔する。お前はいつもそういう表情で人のこと誘いやがるんだぜ?」
「……っ!!触んなっ。」
阿含の一方的な勘違いが煩わしくて、頬に這わされる手をヒル魔は思わず払いのける。
初めてといってもいいヒル魔の拒絶に阿含は眉をしかめた。
「…悪いけど、テメェとはもう犯りたくないんだよ。……帰れ。」
「……何で?そういうの気にくわねぇんだけど?」
「…っ!?」
店の中へと強引に入り込もうとする阿含をヒル魔は何とか押し止めようとする。
阿含を外へ押し出そうとした時に、ヒル魔の視界の端に見知った顔が映った。
「…?………むさ?」
店先で揉み合う二人の姿を目にしたムサシはその場を走り去っていく。
悩みに悩んでそれでも好きで勇気を出してヒル魔に会いに来て見れば、愛しい人は別の男とじゃれあっている。
少なくとも今のムサシにはそう見えていた。
「おいっ!ムサシ!?」
「はぁ?誰のこと呼んでんだよ!!」
「…うるっさい!!テメェはもう帰れっつってんだろうがぁ!!」
ヒル魔は力いっぱい阿含を蹴り飛ばして、後先も考えずにムサシを追って走り出していた。
「ヒル魔っ!!」
阿含の声などヒル魔には届くはずもなく虚しく空を切る。
ムサシを追うヒル魔は、追いついて捕まえてその後どうしたいのかなど考えもつかないでいた。
ただムサシが逃げるから追ってしまう自分に激しく混乱しながら足を動かす。
「はっ…はっ…糞っガキがぁ!!待てっつってんだろ!…はっ…」
息を切らせながら走るヒル魔に気がついて、こんな情けない顔なんか見せられないとムサシはさらにスピードを上げる。
少しでも早く逃げようとムサシは通いなれた道を作業場へと走った。
「……はっ…なっめんなぁぁ!!」
「うあっ!?」
誰もいない作業場の駐車場で、ヒル魔の強烈なタックルを受けてムサシは地面に倒れこむ。
「はぁ、はぁ、ケケッ、ざまぁ…みやが…れ、はっ、はぁ…」
ムサシは息を切らして子供のように笑うヒル魔に目を丸くして見とれてしまう。
「なっに…してんだよ……アンタさぁ……」
「はぁ、うっせ…はぁ、ちょっと…待て……」
ムサシのほうは若いだけあって息も整ってきていたが、ヒル魔のほうはそうもいかず、荒い呼吸を沈めようと努力するもののうまく言葉がでないでいた。
ムサシはこの隙に逃げてしまおうかとも思ったが、ヒル魔がなぜこんなに必死になって自分を追いかけてきたのかが気になって動けない。
しかも気がつくとヒル魔はムサシの制服の端をしっかり握っていて離さないから、ムサシは嬉しくて思わず顔がニヤけてしまう。
ゴンッ!!
「いってぇ……」
「なに笑ってんだよっ!!この糞ガキが…」
「アンタこそ、何で追っかけてきてんだよ!」
「うっ……」
ヒル魔はムサシの当然の問いに言葉を詰まらせる。
「テメェが…逃げるから……」
「だって逃げるだろうがっ!!好きなやつがほかの男といちゃついてるトコなんて見たくないだろ!!!」
「いちゃついてねぇ!!」
「ついてた!!」
「ついてねぇ!!!」
「じゃあ何してたんだよ!!」
「っ……」
まさか阿含がサカってくるのを拒んでいたとも言い出せずにヒル魔は黙り込む。
その様子にムサシはまた一人で勘違いして腹を立ててくる。
「ほらっ!!やっぱり。」
「糞っ、だから違うって!」
「なにがっ!!」
「………」
ヒル魔はどう言っていいのか分からなくなって俯いてしまった。
ヒル魔の一言一言がイラついて、その仕種がいちいちムサシを傷つけるからムサシの気持ちが溢れ出して止まらなくなる。
「何なんだよ!!アイツはアンタの何だってんだよ!!」
「……………前に…付き合ってた……というか…なんていうか…」
「アイツのこと、好きなのかよ?」
「……っ今は…好きじゃ…ない。」
「じゃあ何であんなことさせるんだよ。」
「……………。」
ヒル魔は観念してムサシに少しだけ自分の過去を話し出した。
「阿含が俺のこと好きだって言うから……付き合ってみたけど……きちんと付き合ってたわけじゃなくて……向こうの好きってのも少し違ってて……」
何とかうまく説明しようとすればするほど、阿含との関係が身体だけでしかなかったことが理解できて言葉に詰まってしまう。
もしこの話を聞いてムサシに軽蔑されたらと思うと上手く声が出なくなって言いよどむ。
そんなヒル魔の様子を伺いながら話を聞いていたムサシの手がヒル魔に伸びた。
「俺だってあんたのこと好きって言ったよな?だったら俺でもいいじゃんか。」
「………ガキの癖に…」
思わず強がりがヒル魔の口から出てしまう。
「俺じゃだめか?何で俺じゃだめなんだよっ!!ガキなのはそのうち何とかなるし、俺にしとけよ!!」
「………生意気言うなっ、一時の気の迷いかもしれねぇだろうがっ…」
「だったら何で追いかけてきたりなんかするんだよ!!」
「それはっ………自分でもよく…わからん。」
ヒル魔は嘘をつく。
本当はムサシのことを好きになりかけている自分に気が付いていた。
けれども同時にムサシの気持ちを信じ切れなくて、また自分だけが独りよがりになってしまうことに怯えている。
そんなヒル魔の怖がりな心は今の稚拙なムサシには到底理解できるものではなくて、ムサシがまた荒れだす。
「もういいっ!!俺のこと好きじゃないなら追いかけてくんなよ!!迷惑そうだから店にももう行かない!!じゃぁこれでっ!」
「ムサシッ!!」
「なにっ…!?」
今すぐにでも飛び出してしまいそうなムサシを捕まえてヒル魔は自分から唇を重ねる。
ムサシは何が起こったのかわからずにその場で固まってしまう。
ヒル魔は自分の行動に驚いてすぐに慌てた様子でムサシから離れた。
「………なに…なに?なに?ヒル魔っ今のなに??」
「うっ……うるさい!!知るかっ、糞!!」
ヒル魔の真っ赤な顔が目に映って、ムサシの顔も赤くなる。
「俺のこと、好きなのか?」
「………それはっ、まだ…わかんねぇ…。」
「でも今のは脈ありってことだよな!!」
「………うるさいっ!!それよりここどこだ?道わかんねぇから店まで連れていけっ!!」
ヒル魔は必死でキスの意味を誤魔化そうとする。
そんな努力もむなしくムサシの中ではすでにヒル魔は自分のものだという思いが膨れ上がっていく。
「俺っ、大事にするからっ!!絶対大事にして幸せにするから!!」
「……帰るぞ!!」
ムサシの言葉を否定する元気もなくなってヒル魔は帰りたいと心の底から願う。
そういえば店開けっ放しだとか、阿含のことほったらかしてきたなとか心配事が山のように押し寄せてヒル魔に重くのしかかる。
阿含がこのまま引き下がってくれるとも思えず、またこれからムサシとの距離をどう測っていけばいいのかと悩み、この先の解決できそうにない問題がヒル魔の頭を痛くしていく。
せめて店に着くまでは何も考えないでおこうと、始まってしまったのかもしれない自分の恋心を感じながらヒル魔はムサシに手を引かれて歩く。
そしてかみ合わない会話を交わしながらヒル魔はムサシとともには店へと戻っていくのだった。
終