第3幕
『残香』
「ヒル魔さん、本当に大丈夫?」
「......少し疲れたから寝る。」
「そうね、何かあったらいつでも呼んでね。」
優しく声をかけてくれる心配性の両親から逃げ出すように、ヒル魔は自分の部屋へ逃げ込んだ。
着替えることも出来ずにベッドに身を投げて、さっきまでの出来事を忘れようと努力する。
あまりに静かで時計の音だけが耳に届いている。
気持ちを静めてみると、今更ながらに着物の下で粘つく肌が気持ち悪いと感じ出した。
いったい何がと考えてその原因に気付き、ムサシから受けた屈辱がまたフラッシュバックする。
自分は一体何をされてしまったのかと、ヒル魔は恐る恐る足の間に手を延ばした。
ごわごわとした布の感触とヌルつく肌に触れ、慌てて手を引っ込める。
振り袖までが汚れたのではないかと確認してみたが、その心配はなさそうだった。
振袖に秘め事の証拠がつかないように注意しながら、ヒル魔は自分の身を締め付ける振り袖を脱ぎ捨てた。
肌襦袢姿になったヒル魔は股間周囲に残る屈辱の跡を、汚れていない裾で乱暴に拭っていく。
あまりに力を入れるものだから、白い肌はこすれ傷つき赤くなっていく。
それでもヒル魔はかまうことなく何度も何度も布をこすり付ける。
ただ、どうしても触れることの出来ない箇所があった。
そこも気持ち悪く汚れていたのだが、ムサシの手の感触を最も感じた部分ということもあって、できれば忘れ去ってしまいたかった。
「......うっ...な...んで......糞っ!」
しかし、忘れようとすればするほど、身体に残された記憶がムサシを辿っていく。
身体の変化にどう対応したらよいのかは薄々感づいていた。
しかしその行為自体が汚らわしく、また新たな屈辱を生みつけることをヒル魔は理解していた。
だから今のヒル魔には、ゆっくりと形を変えていこうとする自分の一部を布の上から無理矢理押さえ込んで、ただ熱が静まるのを堪えて待つしかできなかった。
第四幕
『再会』
見合いは中途半端に終わったものの、話自体はムサシ側からの強引な押し切りによって進んでいく。
腹立たしいことに、ムサシは周囲からの評判が良く、ヒル魔の両親も上手く懐柔され始めていた。
その後も何度か誘われていたが、ヒル魔はそのたびに体調が優れないことを理由に断ってきた。
「ヒル魔さん、具合はどう?先方からのお誘いを何度もお断りするのも申し訳なくて。」
「......またなんか言ってきたのか?」
「劇場のチケットが手に入ったので、今晩一緒にどうかですって。」
「..........わかった。」
このまま断り続けると両親にまで迷惑が及かねないと、しぶしぶヒル魔は了承した。
ヒル魔はあんなに嬉しそうな母親を久しぶりに見た。
足取り軽く部屋を出て行く母親の後姿にそんなに心配かけていたのかと苦笑する。
このまま逃げ回っていても埒が明かないと、ヒル魔は決意して身支度を始める。
その日の夕方、ヒル魔の家の前に一台の車が止まった。
「.........。」
「ヒル魔さん、顔色が悪いようだけど、本当に大丈夫?」
「平気だ、行ってくる。」
ヒル魔は家の者に心配をかけないよう無理に笑って、迎えの車へと向かう。
運転手が開けたドアの向こうにムサシの姿があった。
「......っ」
覚悟はしていたものの、いざ目の前に出てこられるとやはり身は竦み、息を詰まらせてしまう。
そんなヒル魔の様子など気にも留めずにムサシは中へ入れと言うように顎をしゃくる。
ヒル魔はきわめて平静を装いながら車へと乗り込んだ。
「ようやく出てきたな。やはり躾がなっていない。」
「.........うるせぇっ」
車を待たせたことを責めているのか、それとも今まで断り続けてきた態度を揶揄したのかヒル魔には判断が付きかねた。
息の詰まるような狭い密室に押し込められて、ヒル魔は視線を自分の手元で彷徨わせている。
まともに顔を上げることすらできないでいる自分が情けなくて歯痒かった。
「......何でオレなんだよっ」
ヒル魔は俯いたままムサシに問いかける。
その様子をムサシは横目で眺めて詰まらなさそうに息をついて答えた。
「別に。何度もこんなこと繰り返すのは面倒だからな。どうせ勝手に決められる相手なら誰でもいい。お前はたまたま一番初めだっただけだ。それ以上の理由は無い。」
自分の人生をこんな男に託されかけているのかと思うと、ヒル魔の身体が怒りに震えた。
「この縁談は断るっ!!」
「それは困ると言っただろう。人の話くらいきちんと聞いておけ。」
「離せっ...離せぇぇぇ」
今にも車から飛び出してしまいそうな勢いのヒル魔をムサシが押さえ込む。
そしてムサシは言葉短に運転手に何かを言い付け、車がゆっくりと進行方向を変えた。
「どこ行く気だっ!そっちは劇場じゃねぇだろうがっ!!」
「気が変わった。」
「話が違う!劇場だから来たのにっ」
さすがのムサシも大衆の面前では強引に何かしてくることはないだろうと思い、ヒル魔はこの誘いに応じていた。
それがキャンセルとなり、何処へ連れて行かれるのかも分からない状態に陥ったヒル魔の混乱振りは、ムサシの目をとても喜ばせた。
「劇場なら、いつでも連れて行ってやる。」
「テメェとは二度と行かねぇ!縁談は断るっつっただろうがっ、もう離せっ!!」
ムサシは必死に抵抗するヒル魔に向かって、プシュッと霧を吹きかけた。
霧を吸い込んだ途端にヒル魔の頭は眩み、視界が霞んで静かになった。
「意外と役に立つものだな。」
手の中のスプレー缶を見つめて、ムサシは少し感心した。