<影絵六枚目>
朝ムサシが目を覚ますと、隣にはようやく見なれた顔があった。
まだいたのかとため息をつくが、不思議と苛立ちや嫌悪といった感情は薄れていた。
起こそうかとも思ったが、起こしたところで今さら叩き出す気も起きず、たぶん連日の疲れも溜まっているだろうからとそのままにしておいた。
じっと見つめていると変な気分になりそうで、慌てて顔を洗い足早に仕事へと向かった。
もしかしたらまた仕事場まで怒鳴りこみに来るんじゃないかとか、また置いて行かれたと泣かれたらどうしようとか、結構酷い事をしている自分に反省しながら気もそぞろに仕事に入る。
一向に身の入らないムサシの仕事態度に、仲間内から今日は帰れと声が掛かる。
昨日の友達が心配なんだろうと言われて否定できずに苦笑する。
じゃあ、お言葉に甘えてと半日で帰ってきたものの、ドアの前で躊躇する。
いたらどうしよう?
いなかったらどうしよう?
怒っていたらどうしよう?
泣いていたらどうしよう?
ゴンッ!!
「何してんだっ?いつまで立ってんだ、早く入りやがれ。糞ジジイ。」
「〜っ………」
不意打ちのように勢いよく開かれたドアに思いっきり顔をぶつけたムサシは鼻血が出ていない事を祈りながらそっと顔から手を離す。
「………わざとか?」
「ったりめぇだ。窓から姿が見えたのに、ちっとも入ってこねぇからな。」
そう言っていたずらが成功した子どものように無邪気に笑うヒル魔を見ると、さっきまで色々と心配していた自分が可哀相になってきた。
いつまでも戸口に立っているのも惨めな気がして無言のまま部屋へと入る。
自分の先を我が物顔で歩くヒル魔の背中に視線を移すと見なれたランニングが目に入ってきた。
「………勝手に人の物着るな。」
「あぁ?だって仕方ないだろう、俺のは誰かさんのおかげで洗濯しなきゃ着れないんだからよ。」
そうじゃなくてとため息をつく。
ムサシにはぴったりサイズのランニングも華奢なヒル魔にとってはダボダボで、その隙間から覗く明らかな情事の痕が正直目のやり場に困る。
仕方が無いので出来るだけヒル魔から離れて外を眺めてやり過ごすことにした。
「お前ってため息ばっかりつきやがるな。………そんなに、俺のこと嫌?」
嫌じゃないから困るんだとは口が裂けても言えなくて、ヒル魔の問いにムサシはそっぽを向いたまま無言で返す。
「………今日は、出てけって言わないのか?」
ムサシは少し沈んだ声に気を揉みながら、そう言えたらどんなに楽だろうと思い、またため息をつく。
ムサシがため息をつくたびに、ヒル魔から緊張した空気が伝わってきていたたまれなくなる。
こんな事ならギリギリまで仕事をしてくれば良かったと後悔したが、今更出て行く事も出来ずこの状況をどうにかしようと頭をひねる。
「………名前…あんたの名前なんてんだ?」
「………っ!……何で?」
「その、タケクラの記憶は持ってないから。だから、あんたの名前俺知らないだろう?……って!!なに泣いてんだよ!!」
視線を向けた先で見つけた綺麗な泣き顔にムサシはうろたえてあとずさる。
「………ぅっるさぃ………泣いてねぇっ!!糞っ」
「………そんなに目こすると腫れあがるぞ?」
気の効いたセリフ一つ言えずにいる自分のふがいなさに少し苛立ちながら、近くにあったタオルをヒル魔に投げつける。
「お前の相手はタケクラだろ?何で俺なんかの所にくるんだよ。」
「…………気になるんだから仕方ないだろうがッ、3回も逃げやがってこのヤリ逃げ糞ジジィ!!」
「ヤリって………仕事あるんだからしょうがないだろうが!!……俺はタケクラじゃないんだし……」
ムサシはぶつぶつと言い訳をしながら頭を抱える。
「………ヒル魔………妖一」
「え?…あぁ、名前。……ヒル魔、か。」
タオルに顔を埋めたまま、ヒル魔がぽそりとこぼした名前に反応してムサシの鼓動が一つドクンと鳴った。
「あー、ヒル魔?……離れててもあれだから、もう少しこっちくる?」
考えてもいないのにムサシの口が勝手に動く。自分の口から出た言葉なのに、耳に入って初めてその意味を理解する。
ヒル魔は一瞬肩を震わせ少し考えて、タオルで顔を覆ったまま距離を詰めてムサシにもたれかかる。
「俺はタケクラじゃないぞ?」
「………知ってる、何回も言うなっ!!」
「そっか。」
ムサシはヒル魔に何を期待しているのかと自分に歯止めをかける。
ヒル魔は自分がわからずに混乱しながらも必死に答えを探そうと足掻く。
微妙な空気が流れる中、お互いの身体が触れ合った部分だけが心地よいぬくもりを伝えていた。