壁に寄り掛かるようにして扉を見つめるムサシの背後に、ライトが影を作っている。
レンガ造りの壁はでこぼことしていて、それに沿うようにして映し出されるムサシの人影も同じように歪んでいた。
ふいにその影が、ゆらりと揺れる。
人工的な光の元なのに、まるで揺らめく炎に映し出された影のようにゆらゆらと揺れ続ける。
そして突然、影は立体的盛り上がり、ムサシの首にまとわり付いて締め上げ始めた。
「てーめーえーはー、何べん、言ったら……わかるんだ、この糞ジジィィィィィィッ」
部屋の静寂を破る怒号が、ムサシの背後で響き渡った。その声は、紛れもなくムサシの背後から聞こえていた。
ムサシの首を締め付ける影はいつの間にか黒い人型になっていて、腰から上半分が壁から生えてきている。
まるで下半身を切り取られて壁飾り用の剥製にされた動物のような状態だった。
そんなわけのわからないものに襲われているというのに、当のムサシは驚くでも怯えるでもなく、この状況を楽しそうに受け入れている。
「よう、結構早かったな」
「早かったじゃねぇぇぇっ! テメェあれほどオレの邪魔すんなっつったのに、また余計な入れ知恵しやがって、もう許さねぇっ」
「許さないならどうするんだ?」
「ブッ殺すっ!」
ムサシの耳元で怒り狂った黒い人型の化け物はぎゃあぎゃあと喚き散らしている。
その声がさすがに耳に痛くなったのか、ムサシは小指で自分の右耳をほじくった。
そしてその手を耳から抜き、首にまとわり付いている黒い腕を掴んだかとおもうと、力任せに引っ張った。
黒い人影がずるりと音を立てて、壁から引き抜かれ、床へ放り投げられる。
「ッてぇ……何しやがんだこの糞ジジィっ」
「あんまり耳元で喚かれるとさすがに頭が痛くなるんでな。それにそっちの姿のほうが話しやすい」
さっきまで全身が黒一色だった人影は、身につけた服こそ真っ黒だったが、その白い顔と金色の髪、大降りのピアスをつけた大きくとがった耳と鋭く生えそろった白い歯をあらわにしていた。
ムサシを睨みつけるその顔は恐ろしいほどに整っていて、怒りに染まった目元が匂うように艶を放っていた。
「何が死の前兆を見逃すなだっ! あいつらの時間はとっくの昔に終わっちまってんだっ。それをチョロチョロチョロチョロ小ざかしく逃げまわりやがって……」
「それでも生きたいってんだからしかたないだろ」
「テメェが余計な手ぇ出すから妙な欲を持ちやがるって、何べん言ってると思ってやがるっ」
「そうはいうけどなぁ、ヒル魔。そうでもしなけりゃお前はここに近寄りもしないだろう」
ムサシにヒル魔と呼ばれた元人影は、忌々しそうに舌打ちする。
そして仰向けのまま、肘を後ろについて床から起き上がろうとした。
ヒル魔の存在意義はとても単純なものだ。生きとし生けるもの全てに定められている死が速やかに遂行されるよう見守ることと、万が一アクシデントが起こったときに、その軌道修正をすることの二点のみだった。
前者は比較的簡単で、たいていの場合は何の問題もなく終わる。
しかし厄介なのが後者のほうだ。
例えば、何の悪戯か偶然、死を予知した人間がいたとする。
この人間は当然のごとく死から免れようと行動を起こすわけだが、問題はその周辺にいる人間まで巻き込んでしまうところにあった。
なぜかは良くわからないが、死の予知を視てしまった人間に最初に用意されている死のシナリオのほとんどは、大量の人間が巻き込まれる大惨事の場合が多い。
個々人にそれぞれ等しく与えられる死だが、どうやら死を与える方にもシナリオを作る限界はあるらしく、時々こうした手抜きをする。
もちろんそれを見守るヒル魔にとっても、一度に仕事が片付くのであれば特に文句はない。
だがこういうやっつけ仕事的な内容の場合、老衰や病気などの綿密に計画された個人に対するシナリオとは違って、大掛かりな脚本が必要となってくる。
そうすると、そのところどころに無理が生じてしまい、そこからわずかな歪みが生じる。
歪みは死の予知という形で、もっとも理不尽なシナリオを持つ人間を訪れる。
死の予知を与えられた人間は、当然のごとく死に抗い逃げようと努力する。
すると不思議なことに、一人の人間が死から逃げようとする都度、死の予知などしていない周囲の人間までが、芋づる式に死から逃げおおせてしまう。
もちろんその人間たちは、自分が死に晒されていたことなど目の前で大惨事が起こるその瞬間まで気付くことはない。
たった一人の死のシナリオ程度なら、それを新しく書きかえることなどヒル魔にとっては容易い。
しかしそれが複数となれば、それぞれの人間の周囲への影響も考慮しながら、いくつものシナリオを考え出さなければならなくなる。
そのうえ、新しいシナリオを作るにしてもきちんとしたルールがあり、死の順番に不平等があってはならないということから、新しいシナリオを作るときにも、本来用意されていた死の順番どおりに事を運ばなくてはならない。
しかも新しい死が訪れるまでの時間が延びれば延びるほどに、周囲への影響は強くなり、そこからまた無意識のうちに死から逃れてしまう人間が多数出現する。
そうなってしまえばヒル魔の仕事量は、芋づる式というよりも鼠算式に膨れ上がり、手がつけられなくなってしまう。
だからこそ、ヒル魔は死から逃れた人間に対して、一刻も早く死を与えなければならない。
しかし、なぜかそれを邪魔する男が一人いる。
その男はどこからともなく現われ、いつからか死から逃れる方法を人々に与え始めた。
そしてその方法を知った人間の中にはそれをうまく活用し、死から逃げ続けようとする者まで現れた。
たった一度のシナリオを書き換えるだけでも大変だというのに、こう何回も何回も逃げられては、さすがのヒル魔もお手上げになってしまう。
しかもその人間が逃げおおせているうちは、その影響を受けて本来の死から逃れてしまった人間が新たに出現してくる。
こうして失敗が続いて、どうにもこうにも怒りが収まらなくなったときにヒル魔はムサシの元を訪れるのだった。